Pure heart like a flower

人は天下の神物なり

人は〈神の分け御霊である〉神道ではそのように教えられています。

ですが、神の分け御霊であるからと言って、私達は『人間』ですから『神』ではありません。

人間として魂を授けられ、魂の源へと還る日と定めし時まで、精進し、自己の御魂を磨き、努力し、神が授けし頃の尊き御霊へと戻る(進化させる)。

このように解釈すれば良いと思います。

 

これを心に思う時、私は六根清浄の大祓の詞がしっくりくるのです。

六根清浄でも『人は天下の神物』とされています。

 

【六根清浄】

天照大御神の宣はく 人は天下(あめした)の神物(かみみたまもの)なり

須らく 天下静かにして平らかならんと努るべし

心は即ち神明の本主(みなもと)たり 心神(わがたましい)を傷ましむること莫(なか)れ

是の故に

目に諸諸の不浄を見て 心に諸諸の不浄を見ず

耳に諸諸の不浄を聞きて 心に諸諸の不浄を聞かず

鼻に諸諸の不浄を嗅ぎて 心に諸諸の不浄を嗅がず

口に諸諸の不浄を言いて 心に諸諸の不浄を言はず

身に諸諸の不浄を触れて 心に諸諸の不浄を触れず

意に諸諸の不浄を思ひて 中心に諸諸の不浄を想はず

是の時に清く潔きよき͡偈(こと)あり

諸諸の法(のり)は影(かげ)と像(かたち)の如し 身清く心潔よければ仮にも穢るること無し

説(こと)を取らば得(う)べからず皆花〈因〉(はな)よりぞ木の実〈業〉(み)とは生(な)る

我が身は即ち六根清浄なり

 

六根清浄なるが故に心体健やかなり 心体健やかなるが故に天地(あめつち)の神仏と同根なり

天地の神仏と同根なるが故に万物(よろず)の霊(みたま)と同体なり

万物の霊と同体なるが故に 祈願(ねがうところ)のこと成り就(と)わずと云うことなし

極めて汚きも滞(たま)りなければ 汚きものはあらじ 内外(うちと)の玉垣(たまがき)清く浄しと申す

 

私は六根清浄の祝詞が大好きで、毎朝神棚で奏上申し上げています。

奏上すると、心がスッキリします^^

 

『心』は神を写し、己を写し出す場所。

身清く心潔よければ仮にも穢るること無し なのです。

 

六根清浄を奏上する時、知らず、知らずに人は罪を犯し、穢れているのだということを思い知らされるのです。

 

己の欲のために、心を穢す人間の浅はかさ。

つい最近、そのような話が身近にあり、心を痛めていましたが

洗濯物を干しながら、不思議なことに

『耳に諸諸の不浄を聞きて 心に諸諸の不浄を聞かず』

『是の時に清く潔よき偈あり』

『内外の玉垣清く浄しと申す』

何故だか、この一文が次々と何度も私の中に出てきて、くるくるとリピートしていました^^;

 

何事の経験も活かし、魂を成長させようとする姿勢の人は、常に潔よい生き方であり、

自然と六根清浄を実践していると私は思うのです。

 

この六根清浄の祝詞は心の願いを叶える祝詞とも云われています。

ですが、欲を叶えるものではありません。

六根清浄であるが故に、魂が求める祈願が自然と心に現れ、然るべきときに成就されるものなのです。

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