やっと手にできた仕事にも慣れて、安定した生活が送れていたのに……
霊感の強さから体調を崩して、また仕事に行けなくなってしまった。
私はしばらく修行を離れていたのでした。
これは天の追い込みだ。
そう思った私は、霊媒体質を調整するために覚悟を決めて、
母様の元で修行を再開したのでした。
この話は、私の人生に訪れたある深い体験のひとつです。
誰かに与えられた力ではなく、心の奥にずっと眠っていたものが、
祈りと行を通して目覚めた瞬間のことです。
そして、その目覚めの先に、富士龍王とのご縁が結ばれました。
実は、最初の試みはうまくいきませんでした。
あのときの私は、どこかで結果を急いでいたのだと思います。
だから祈り直しました。
「どうか神様と、深く繋がらせてください」と。

それから、五種類のお経を十巻ずつ、
一日三時間ほどかけて、毎日休むことなく読経する行を始めました。
修行を再開したことで、体調も徐々に回復へ向かっていたため、
仕事に行きながらの読経にも挑戦していたのです。
長いと感じる日もありました。
けれど、経文を重ねるうちに、波立っていた心が少しずつ鎮まっていきました。
何かを起こそうとするのではなく、
ただ、神様と深く繋がりたい……その一心で祈る日々。
次第に心は鎮まり、
そして……時が熟しました。
富士龍王が降りる前、
私の内側から白龍が天へと昇る映像が視えました。
何かが“与えられた”のではなく、
ずっと奥に眠っていた力が、先に名乗りを上げたのだと思います。
その後に降りてきてくださったのが、富士龍王でした。
そのとき起こった一連の出来事こそが、私にとっての龍の召喚でした。
そして、富士龍王は私の守護龍として共に在ることになったのです。
呼び出したのではありません。
鎮まり、熟したとき、ご縁は結ばれたのです。
龍に護られる人生が始まったのではなく、
龍として立つ覚悟が芽生えた日だったのだと思います。
私にとって「龍として立つ」とは、天と地の間に立つこと。
天の理(神意)と、
地の現実(人間社会)のあいだに身を置くことです。
理想だけに逃げない。
現実に溺れない。
その中庸に立ち続ける姿勢こそが、私にとっての龍性なのです。
どんな時も、自分の軸を手放さない。
それが、あの日芽生えた覚悟でした。
そして、あれから十三年。
本当にいろいろなことがありました。
召喚して最初の頃は、
パートナーの裏切り。
お金の問題。
成功を掴みかけると、なぜか崩れていく現実。
つまずいてばかりの人生に、嘆いたこともありました。
八方塞がりだと感じて、
夜の淀川の河川敷で、空に向かって大声で泣いた日もあります。
阪急線が走る音に紛れながら、
誰にも届かないように、
それでも抑えきれずに泣きました。
暗い空は何も答えてくれなかったけれど、
ただ、広くそこにありました。
それでも、私は立つことをやめませんでした。
理想に逃げず、
現実に飲み込まれず、
天と地のあいだに立ち続けることを選びました。
今、私は再婚し、夫婦二人三脚で歩んでいます。
喜びも悲しみも半分ずつ。
苦労を共にしながら、笑いの絶えない日々を過ごしています。
崩れながら、揺れながら、
それでも軸に戻る。
七転び八起き――まさにこの言葉がしっくりきます。
そうして私は、龍神によって器を育ててもらったのだと思います。
龍神は、単に力を与える存在ではありません。
試練や逆境を通して、心や魂の受け皿を広げ、深め、揺るがない軸を持たせてくれる存在です。
だからこそ、どんな嵐の中でも、自分の軸を手放さずに立つことができる。
それが「龍として立つ」ということなのだと、今ならはっきりわかります。
龍として立つとは、強くなることではなく、どんな嵐の中でも軸を手放さないこと。
あの日芽生えた覚悟は、今も私の中に息づいています。