私は温泉とサウナ(ロウリュウ)が好きで、数年前は毎週のように通っていました。
最近は時間が取れず回数こそ減りましたが、今でも私の健康法の一つになっています。
そんな場所で、小さなお子さん連れの親御さんと一緒になることがよくあります。
- 水風呂で泳ぐ
- 湯船の中に潜る
- 浴槽の縁に置かれた足掛け用の洗面器で遊ぶ
- 長い髪を結ばないまま湯船に浸かる
年に数回しか行かなくなった今でも、こうした光景を目にしない日はないほどです。

気になるのは、子どもではなく親の姿
ただ、私が気になるのは子どもではありません。
小さな子どもが、最初から銭湯のマナーを知っているはずがないからです。知らないのなら、大人が教えなければ分かりません。
「お風呂では泳がないよ」
「髪の毛はお湯につかないように結ぼうね」
「これは遊ぶものじゃないよ」
そうやって一つずつ教えていくものだと思うのです。
ところが、親御さんがすぐそばにいても何も言わない。
機嫌よくしてくれているほうがややこしくない、と思っているように見えることもあります。
スーパーでも同じような光景があります。
兄弟で店内を走り回る、売り物をむやみに触る。
ファミレスでは、靴を履いたまま座席に上がる子どもの横で、親が我が家のように座席に寝転がっていることもあります。
そんな様子を見ていると、いつも不思議に思います。
この人は、どんな躾を受けてきたのだろう、と。

「怒る」と「叱る」は違う
そして子どもが騒ぎ出すと、親は急に感情的になります。
「もう!やめて!」
「いい加減にして!」
けれど、よく見ていると、これは「してはいけないことをしたから叱っている」のではありません。
- 自分がうるさいと感じたとき
- 自分が困ったとき
- 言うことを聞いてくれず、イライラしたとき
そんなときに感情をぶつけているように見えるのです。
一方で、子どもが人に迷惑をかけていても何も言わず、実際に誰かに迷惑をかけても「すみません」の一言さえないことがあります。
以前、こんなことを言っているお母さんもいました。
「もうやめて。ママがまた怒られるでしょ。」
思わず「そこなん?」と思ってしまいました(笑)
なぜそれをしてはいけないのか、なぜ周りの人に迷惑をかけてはいけないのか。
そこを教えず「ママが怒られるから」と言ってしまうと、子どもに伝わるのは次のことになってしまいます。
「人に迷惑をかけるからしてはいけない」ではなく、「誰かに怒られるからしてはいけない」
それでは、誰も見ていなければいい、怒られなければいい、ということになりかねません。
自分の内側の「これは人を困らせるからやめよう」という物差しではなく、外側の評価で動く生き方を、知らず知らずのうちに教えてしまうことになります。
- 怒る
「怒」という漢字には「心」があります。
腹を立てる、いかる、憤るなど、心の中から湧き起こる感情を表します。
- 叱る
「叱」は「口」と「七」からできた漢字です。
「口」は文字通り、人の口を表します。
「七」は音を表すとする説が一般的ですが、「切る・切りつける」という意味から、口で切りつけるように強く言うことを表している、という説もあります。
つまり「叱る」とは、ただ感情をぶつけることではなく、相手のよくないところを言葉で指摘し、正すこと。
こうして漢字を見ても、
「怒る」は心に起こる感情。
「叱る」は口から相手に伝える行為。
この二つは意味が大きく違うのです。
だから、
「怒る」は、自分が不快だ、困った、思い通りにならない、という自分中心の気持ちから出る反応です。
「叱る」は、この子が社会の中で皆に愛されて生きていけるように、という相手を思う気持ちから出る行いです。
同じ大きな声でも、どこから出ているかで、子どもへの伝わり方はまったく違うと思います。
「それをすると、ほかの人が困るよ」
「ここはみんなが使う場所だから、こうしようね」
「人に迷惑をかけたら、ごめんなさいをしようね」
そして、まだ子ども自身がきちんと謝れない年齢なら、まず親が「すみませんでした」と頭を下げる。
子どもは、その姿も見ています。

子育ての大変さは、痛いほど分かります
こういうことを書くと、子育て中の方を責めているように聞こえるかもしれません。
でも、私も二人の息子を育ててきました。だから、子育て中の大変さは痛いほどよく分かります。
思い通りにならない日も、余裕がなくなる日も、たくさんありました。
赤ちゃんや小さなお子さんを連れての外出が大変なことも、もちろん承知しています。
そのうえで感じるのは、私が子育てをしていた30年前と比べて、今の社会は子育て世代にずっと優しくなったということです。
ベビーカーを畳まずに公共交通機関を利用することも認められ、子育てを応援しようという空気も広がりました。
それ自体は、本当に良い変化だと思っています。

子育ては「ご協力いただく」もの
だからこそ、気になることがあります。
百貨店のエレベーターや電車など、混み合った場所でベビーカーを押す親御さんと一緒になることがあります。
私が子育てをしていた頃は、電車では折り畳めるベビーカーを使い、混雑時は抱っこ紐に替えるなど、周囲の邪魔にならない工夫をしていました。
だからといって、今のお母さんたちに同じことを求めたいわけではありません。時代も、社会の考え方も変わりました。
ただ、周囲を確認せずにベビーカーをぐいぐい押し込んでくる。
人に当たりそうになっても一言もない。
周囲が場所を空けてくれて当然という顔で、眉間にしわを寄せて入ってくる。
そんな姿を見ると、自分が被害に遭ったわけではなくても、とても不快な気持ちになります。
なぜなら、子育てとは”「権利だから当然」ではなく、周囲の人にも「ご協力いただく」ものだ ″と思うからです。
子育てをしやすい社会へと変わってきたことは、とても良いことだと思います。
でも、周囲の人への配慮は必要です。
子育てとは「してもらって当然」ではなく、周囲の人にも「ご協力いただく」ものではないでしょうか。
「すみません、通ります」
「ありがとうございます」
この一言は、親が礼儀正しく見られるためにするのではありません。
我が子のためです。
小さな子どもは、一人で社会を生きているわけではありません。
たくさんの人に見守られ、ときには場所を譲ってもらい、手を貸してもらいながら育ちます。
日本には「お陰様」「お互い様」という言葉がありますが、人は目に見えない多くの支えの中で生かされているのだと思います。
だから親は、我が子が周囲に気持ちよく受け入れてもらえるよう努力する。
そして周囲の私たちも、子育て中の親子を大切にし、必要なときには気持ちよく協力する。
- ベビーカーが通るなら、少し場所を空ける
- 困っていたら、手を貸す
- 小さな子どもが泣いていても、必要以上に冷たい目を向けない
親は我が子のために周囲へ配慮し、周囲はその親子のために協力する。
どちらか一方が「してもらって当然」なのではなく、お互いが相手を思いやる。
受け取った親切に感謝し、いつか自分も誰かに返していく。
そんな優しさの循環が生まれたら、素敵だと思います。

「自分一人の振る舞いではない」と気づくとき
子どもを連れて社会に出たとき、
「もう、自分一人の振る舞いではないんだ」
と気づく。
私は、それが親としての自覚が芽生える瞬間のひとつだと思います。
自分中心の見方から、周りの人も含めた見方へ心が広がっていく、人としての大きな節目でもあるのではないでしょうか。
自分一人なら、どう見られようと自分だけの問題です。
けれど子どもを連れているときは、そうはいきません。
自分の言葉も、態度も、人との接し方も、すぐそばで我が子が見ています。
「子どもは親の鏡」とよく言いますが、子どもの姿には、親の日々の姿勢が映し出されるものです。
- 何かしてもらったら「ありがとう」
- 迷惑をかけたら「ごめんなさい」
- 公共の場所では、自分たちだけが良ければいいわけではない
- 困っている人がいたら、自分も手を差し伸べる
こうしたことを、子どもは言葉で教わるより、親の姿から深く、少しずつ覚えていくのだと思います。

なぜ、こうなってしまうのか
もちろん、私たちが目にするのは、その親子のほんの一場面です。
疲れ切った日かもしれませんし、ようやく外出できた日かもしれません。
背景には、時代ならではの事情もあるのでしょう。
- 孤立した育児や睡眠不足で、心の余裕がない。「教える」より「今を乗り切る」が精一杯になっている。
- 核家族化や近所付き合いの減少で、周囲に頼ったり、教えてもらったりする機会が減った。
- 自分自身が感情的に怒られて育ち、「叱る」手本を知らないまま親になった。
- 日本では世間の目が強く、「人に迷惑だから」より「怒られるから」が行動の理由になりやすい。
だからこそ、親を責めるだけでは何も変わらないと思います。
親も周囲も、「お互い様」の気持ちで少しずつ歩み寄れたら、と願っています。

躾とは、社会で生きていくために教えること
躾とは、子どもを親の思い通りに動かすことではありません。
社会の中で、ほかの人と一緒に生きていくために必要なことを教えることです。
だから、ただ怒鳴るだけでは伝わりません。
そして、何も教えなければ、もっと伝わりません。
子どもは、親に言われたことだけでなく、親がしていることを見て育ちます。
親もまた、子どもを育てながら「親」になっていく。
我が子がいつか親の手を離れ、社会の中で一人で生きていく日のために。
叱ることも、謝ることも、感謝することも、人に配慮する姿を見せることも。
その一つひとつを、我が子に伝えていくことが大切なのではないでしょうか。

そして、子育ては子どもが成人したら終わり、というものでもないのでしょう。
私は、息子たちが成人した今でも、
親として、どんな姿を見せていくのか。
その学びは、今も続いています。